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しろくまが好き。

感性で書く。

おしゃれさん。

 

毎日楽しく充実したい。

まあ、そんな毎日楽しめないわ、みたいな。

そんな日もあるんですけど。

 

 

 

おしゃれをすると、いつもより足取りが軽くなる。

おしゃれしないで、縮こまって歩くくらいだったら、おしゃれした方がいい。

少しでも好きな服を着て、好きなコーディネートを着て、新しい鞄や靴に心を弾ませたりして。

服に合わせてリップの色も変えて、アクセサリーも似合うのを選んで、完璧!ってなった朝はいい日。

 

出来るだけ心が軽くなる用意をする。

心が軽くならない日だってある。

朝から寝坊したら、ずどーんって気分だ。

でも、ちょっとでも自分が気になる要素を減らす。

ちょっとでも、自分がわくわくうきうきできる要素を増やす。

それは形からでも充分。

 

単純な私は、何か一つでも、自分の好きなものを身につけていればそれだけで満足できる。

 

そうやって、毎日毎日、自分の心が軽くなるように行動する。

自分を満たせる要素を増やしていく。

内側を作れば外側はきっも勝手に出来上がってくるけど、内側を作るのは難しいから、とりあえず外側だけ作っておく。

あとはそこに内側を流し込んでいくだけ。

 

外側が完璧なだけで、いつもより強くなれる。頑張れる。

内側も外側もなってない人より、外側だけでもなってる人の方がましだと思う。(笑)

外側は簡単に作れるけど、それを作るのには少しの努力は必要だし、それをするかしないかは自由だけど。

外側だけでも完璧にしておくと、心が弾むから、弾ませておけばいいんだよ。

 

 

 

心が弾んでたらなんでも楽しくなるから。

 

 

毎日を精神論で終わらせる日常にストップをかけたい。

 

楽しく生きたいっていったって、毎日毎日たのしい行事を詰め込む訳にはいかないから、日常の楽しい要素増やしていくしかないんだ。

 

それが、充実している人の、毎日の楽しませ方なのかもしれないと、やっと気づいた。

武器が、ない。

 

バイト帰りの車の中。

知らない人と乗り合いのハイヤー

父親世代の人と50.60代の運転手。

気まづくも、安心するわけでもない空間。

私が道案内をするまで、会話は一切ない。

携帯から発せられるブルーライトだけが、私を照らしていた。

 

首都高に乗って、

どうして築地に首都高の入口があるんだろうなんて、誰だって答えの出せる問しか思い浮かばない自分の頭を呪った。

 

 

しばらく走ると見える東京タワーの先端。

なぜか、東京タワーには惹かれるものがある。

 

ここが東京だって、いつでも示してくれているからだろう。

あの"指標"を見ると、渋谷より東京を感じる。

 

これからこの景色をいつも見られるのかと思うと疲れなんて忘れられた。

 

首都高を降りて、見慣れた道を走る。

 

ふと自分に武器がないことに気がついてしまった。

 

武器だけじゃなくて、盾も鎧もない。

このままじゃ、いつまでたっても負け戦からは抜け出せない、そう思った。

 

いつも、いつもいつも、どこに行ったって、誰と居たって、自分より出来る誰かの存在がある。

そういう存在は、私に何かを教えてくれるし、困った時には助けてくれる。

ありがたい存在だ。

 

その一方で、何も勝ち目のない自分。

 

経験がものを言う、のは確かだが、経験でもなんでも、私がその人に勝てるものは、何一つない。

 

武器も、盾も、鎧も無ければ、傷ついて、ボロボロになって、いつか死んでしまう。

 

このまま社会に出たら、人と戦う武器も、自分を守る装備もない私は、一瞬でもみくちゃにされて、玉砕だ。

自爆より酷い。

爆薬すらも、持っていないのだから。

 

幸い今の日本は戦場ではないし、どんなに酷い目に逢おうとも、私の肉体が無くなることは早々ない。

 

でも、目に見えない戦争は、確実に私を巻き込んでいくことだろう。

誰も、巻き込まれずには通れない。

 

たった一つでもいい、

攻撃はしなくてもいい、

ただ自分の道を切り開くために、

社会でもみくちゃにされないために、

武器さえあれば、

戦いの土俵には立てるのだ。

 

武器があっても、戦闘力が無ければ、戦いの舞台には立たせてもらえない。

 

戦いの舞台に立たないことは、平和なことではない。

戦争はすぐ隣で、自分の身に危険が及ぶほどの距離で、起きている。

 

戦わない人は、逃げ惑うしかないし、戦えない人は、戦う人に搾取されるのだ。

 

 

 

 時間と労働力しか売るものがない大人にはなってはいけない。

自分で、自分の力で、お金を稼いで、生きていなきゃいけない。

それが戦うってことだ、と思う。

 

組織に所属していても、個人でもいい。

個人の方がきっとずっと難しいけれど。

 

ただ、会社に入れば何とかなるというのは違う。

会社だって、組織単位では武器が必ずあって、そこの一員ということは、武器のパーツの一つな訳だ。

立派な戦力がないと、足を引っ張る。

 

つまり、会社に入ろうが入らまいがそれは個人の自由だが、どちらにしても武器がないと生きてはいけないのだ。

 

私も武器を持たなければ。

これから武器を作らねば。

 

 

 

 

 

将来フリーで自由に仕事したいと思ったけど、会社に入ってある程度経験を積んだら、それが出来ると思っていた。

でもきっと違う。

将来個人で食べていける人は、学生だろうとなんだろうと1人で何かを作れるのだ。1人ってそういうことだ。必要なのは経験ではなくて、1人で食べていく覚悟と行動力だと思う。

スケールやレベルは違くても、学生だって何か作り上げられないということはない。最後まで作り上げる忍耐力、行動力、熱意、そんなものさえあれば、何かしら出来るのだ。

 

そして、その何かを決めるのは将来ではない。

今ですら決まってない何かが将来決まるはずがない。

 

今決めたものと将来決めるものはきっと違うだろう。

しかし、そこにある決断力と覚悟は変わらない。

 

今決められなくて、将来決められるかもしれない。

しかし、それは決断力と覚悟が芽生えたからで、そんなものは受動的なインプットだとか、情報、経験、技術とは関係ないのだと思う。

 

今1人で何かできる人はきっと将来も何か作れる。

今1人で何も出来ない人は、将来何か出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。

 

今は覚悟を持とうと思えるものがないだけの場合もあるかもしれない。

でもいざという時に覚悟出来るか、行動できるか。

 

20歳の考えなんて、浅はかで稚拙だと思う。

でも、多分きっと、行動力と決断力は大事なんだと思う。

尊敬するDJあおいさんがそう言っていたから。

 

それを信じて進むっていうのも、そういう選択をした自分への覚悟なんだと思う。

 

正解は未来にしかない。

今はこの選択を正解に近づけるしかない。

 

きっと正解は精一杯だと思う。

後悔は納得がいかないから生まれる。

結果が悪かろうと、失敗しようと、正解不正解を決めるのは自分で、判断基準はやって良かったかどうかだ。

 

やって良くないことは多分ない。

自分で選んだことなのだから。

それが不正解になってしまうのは、心残りがある時だけだと、そう思う。

 

だから、正解は精一杯。

何かを頑張るんじゃない、

それを当たり前にする。

 

武器を身に付ける。

それを習慣にする。

刃が錆びていては、刀は使えない。

毎日磨いてこその、戦闘力。

 

人生心がけ次第。

みんな始めは0。

 

元気が出る言葉を纏って、生きていきたい。

大人になること

 

大人になることは、大切なものを重ねていくことなんだろうな

 

ふとそんなことを思った。

人、もの、時間、思い出。

手に乗り切らないような大切を上手く両手に乗せて、また新しい大切を積み重ねていく。

大人はそんなものだと思いたい。

大人って素敵なんだよって言ってくれる大人が少なすぎる。

 

もう20歳だし、成人してるし、大人なのかもしれない。

でもやっぱり本当の大人は自分で稼いだお金、自分で決めた選択で食べていく人のことを言うのだと思う。

だから私はまだ子供。

親にも、大学にも、社会にも守られている、職業は"学生"。

 

学生だから、ちょっと何かが欠けていても仕方ない。そんな空気がある。そこに甘んじている。時がある。

 

大人になるっていいことだって教えてください、大人のみなさん。

 

大変だけど、めちゃくちゃ楽しいぜ、とか、やりがいを感じた時は幸せ、とか。

疲れて仕事帰ってきた時に見る奥さんと子供の笑顔が癒しとか、もう惚気でもなんでもいいよ。笑顔は最高だよって頷いて聞くからさ。

 

大人への悪口みたいになったけれども。

 

大人になってよかったことをひたすら聞きたい。

 

大切なものを零し続けている気がする私は、どうしたら大切なものをちゃんとすくえる大人になれるのだろう。

 

誰だって零してしまった大切はあるだろうし、それで後悔もすると思う。それも経験。

 

でも、新しい大切のために、持っている大切を無くしてしまうような、そんな子供のままでいていい訳はない。

 

大切なものは、ちゃんと両手で受け止めて、抱きしめていたい。一つたりとも零したくない。貪欲。

 

だって大切なんだから、当たり前でしょ!!!

 

大切を大切に出来る、大切に愛をいっぱい注げる、大切を受け止めて零さない、そんな大人になりたい。

 

大切ではないけれど、新しいこと始めるのに、何かを捨てなきゃならない現状への嘆きにも聞こえる。

 

なんでもかんでも新しいこと、気になったことを始めたられた大学2年生までってめっちゃ楽しい期間だったんだね。もっと遊んでおけばよかった。

 

捨てるのが苦しい。名残惜しい。だけど新しいことも始めたい。葛藤の春。

 

せめて、終わりは始まり、と正々堂々新しいことを始められるところまでは、大人になりたい。

 

後悔ではなく、反省を。

普遍的な言葉

 

ある夜のこと。

図書館から督促?催促?の電話(笑)が来て、バイト終わりに本を返してきた。

 

道が真っ暗で、人も本当にいないし、めっちゃ怖くて、心臓バクバクした。お化け屋敷か。

 

じゃなくて。

 

駅に戻ってきて、緊張の糸が切れたんだけど、実はそこは終わりではなくて。

駅だから安全なことは全くなくて。

家に帰るまでが、帰り道。

家だって、100%安全なんてことないんだけど。

 

この緊張の糸が切れた瞬間に、ふときみすいを思い出した。

 きみすい、本当に大好きだなあ。

 

彼女がねー、彼の行動を変えるところがねぇ。

好きですね。

 

というのは、まあ置いておいて。

 

この時物語の中の話を実践的に感じた。

これが理解か、と。

20年生きて、やっと分かった。

こうして知識は血と肉になっていくのだと。

(これは小説だから知識ではないけど)

 

本って、読んだら終わりじゃなくて、例えば自分が同じような経験をしたり、同じように感じた時に、本当に財産になるものなのだなあと。

もちろんSFみたいなのは体験出来ないけれど。

 

だから、本をたくさん読むことももちろん大切だけど、自分の行動や感覚を普遍的な言葉で残しておくのも大事だなって。

 

人と人をつなぐのはやっぱり言葉で、その共通のプラットフォームを持っているから私たちは意思疎通ができる訳で。

 

誰かが感じたことを表現した言葉を理解するって、やっぱり自分の中にもそう感じた経験がないと難しいと思った。

 

断片的にすくって分かることは出来るかもしれないけれど。

 

やっぱり感覚や感情をつないで、共有するのに必要なのは言葉だから。

どんなに月日を共にした人でも、どんなに分かりあってる人でも、やっぱりその人のまるごと全てなんてその人にしか分からないから。

 

みんなが分かる言葉に出来ないと、結局は何も伝わらないということ。

自分の心を言葉にしたところで、それは伝えた、だけの自己満足。

いつも見合う言葉がないと嘆いているけれど、それはやっぱりなんだか特別感を持たせたくなってしまうからで、その行動に「名前をつける」みたいな唯一感が欲しかっただけで、結局多分何が起きているか、何を感じているか、なんてそこら辺に落ちている言葉で充分事足りるのだろう。

 

複雑なことを複雑に言うことはただの自己満足だ。

人が理解出来ないことに自分の特別感や唯一感を得るのではなく、伝わらなかったことを恥よ。

何だって、考えて、突き詰めれば、きっと小学生でも分かる言葉で説明出来るはず。

(学術的な話は除く)

 

まあでも、カタカナ語とか業界用語とか専門用語を使って、一般人が理解出来ないのを嘲笑いながら、自分の特別感を認識して、その場限りの優越感に浸っているなら、それは同じことだろう。

そういうのは結局自分だけじゃなくて、周りも滅ぼしていくんだろう。

 

伝えることをずっと考えていたけれど、伝わることを考えよう。

 

時には自分だけで噛み締めたい感情もあるけれど、言葉にして、普遍的なものにしてしまうことを惜しまない。

それよりもっとたくさんのことを言葉にしておきたい。

それで言葉を通じて色々な感覚を吸収したい。

 

足りない想像力は、実践で補うしかない。

 

さーて、明日はテスト(´−`) ンー

 

 

自分の中心線。

 

わからないものはわからない。

時にそれはわかろうとしてないからかもしれない。

でもどれだけわかろうとしてもわからないこともある。

 

絶対的地位が揺らぐ。

 

私を支えていた地面が音を立てないようにひっそりと、崩れた。

いや、まだ崩れていないかもしれない。

 

私は下に下に落ちていく。

地面はもっと下に下に落ちていく。

 

とても当たり前のことだけど、地面は天井にはならない。

地面はいつも私の下にいる。

私の重さを真下から支えてくれている。

 

崩れたって、地面は地面。

物理的な話はわからないけど、地面の破片が私の上から降ってくることもあるかもしれないけれど、行き着く先は私と同じか、それより下の新しい地面なのだ。

 

何が起きたって、地面が私の天井になることは絶対にないんだ。きっと。

 

元いた地面が、天井になってる事はあるけれど。2階から1階に降りるみたいに。

 

だって天井には、天井を支える柱があるから。必ずしも柱でなくとも、なにか支えがあるのだ。

 

例えば天井は崩れても、地面より下には落ちはしない。地面が崩れない限り。いや、例え地面が崩れても、地面より下に天井が落ちるわけはないのだ。だって、いつだって私の足元には地面があるし、私が地面より下に落ちないのなら、私より上にある天井が地面より下に落ちることもないから。

 

 

 

 

まあ、自分でも何言ってるかわかんないんだけど。

 

地面だけに支えられる人間じゃなくて、地面と柱に支えられてる天井になりたいなって思ったりしてみた。

 

いい時と悪い時の差が激しいと口調も同じようでまるで違うから怖い。自分なのに。

 

精神の安定的統一を図るのは厳しいけど、まあできるだけいい方向で落ち着いてほしい。

 

自分だからって受け入れることと、変わらなきゃって変わろうとするのと、境目がわからなくて、困ってる。

 

 何かがいいと思ったら、自分が悪いと思ったら、変えていきたい。

でも、変わることには終わりも正解もない。

だからって終わりと正解を求めている訳ではなくて、ただその追求の仕方とか、自分自身と変化のバランスだとか、変化のベクトルとか。

 

いつだって、上手くやろうとすることは大切だけど、完璧に上手くある必要はない。だけど、それでも、やっぱり、上手くありたいし、上手くいたい。

 

変わりたいけど、変わりたくない。

変わること、受け入れること。

 

自分の中心線がどこにあるのか、しばらく探さなければ。

 

どこかの誰か

 

風が強い。

 

耳にさした新しいイヤフォンから漏れる音をかき消すような風の音。

 

落ち葉をかき集めて、舞い踊らせる。

 

 今日もいつもの道を歩く。

 

リズムに合わせるように、一歩一歩。

耳の中から流れてくる音楽が、私の歩を軽くした。

 

 

正門をくぐると、いつものように階段を登り、教室に向かう。

 

その途中、腰を曲げたおじさんたちが、落ち葉を掃除していた。

 

風が吹いてはそれを邪魔し、

あるいは風を起こす機械で葉っぱを集め、

道を綺麗にしてゆく。

 

 

…掃除をしない、という選択肢もあったはずだ。

 

懸命に掃除をするおじさんたちを横目にみながら、彼らの努力を否定するような思考に辿り着く。

 

なぜ、掃除をするのか。

なぜ、綺麗にするのか。

誰のために、綺麗にするのか。

 

学校としての体裁?

綺麗な校舎を保つ?

教員や学生が生活しやすいため?

…それが仕事だったから?

 

私がわからない理由だってたくさんある。

大人の事情、ってやつかもしれない。

 

理由はなんだっていいんだ。

ただそこに事実があるだけだから。

掃除をしてくれる人がいて、道が綺麗になっているのだ。

 

せっせと掃除をしてくれる人がいるから、私は綺麗な空間で生活できる。

 

また、落ち葉はどこからとも無くやってくるのに。

せっせと集めて、せっせと袋につめる。

いくら集めても飛ばされて、それでもまた集める。

いくらほうきで穿いても、道にはまた落ち葉がたまるのに、際限のない掃除を、せっせと続ける。

 

公共空間を掃除している人を見ると、なぜか胸がぎゅっとなる。

大学の中は違うけれど。

 

高校生の頃、雪が降った日に、駅前の道で雪かきをしていた人が忘れられない。

たしか駅員さんだった気がする。

 

誰に頼まれた訳でもない。

それに対する対価も払われる訳ではない。(もちろん鉄道会社の社員であれば時給は出るであろうが、それは雪かきに対する対価ではない)

それを必要ないとして、暖かい駅員室にいることも出来たはずだ。

直に雪なんて溶けるのだから。

 

だから、もし他にどうしても大事なことがあれば2番手に回されるようなことだけど、必要なことをする人になりたい、ってその時思った。

あとは、誰もやっていないけど必要なことを穴埋められる人にも。

 

他の人がやってることをやっても、仕方ないのだ。

他の人が手が回らないところにいたい。

猫の手…いつも思う。

 

欲を言えば、猫の手も借りたいくらい忙しい時に、人間の手を差し出せる人になりたい。

 

たぶんきっと、これ縁の下の力持ちって言うんだろな。でもあんまり好きな言葉じゃない。笑

 

私はなんの手になれるかな。

猫の手くらいにはなれてるかな。

たまにただじゃれるだけの猫に

なってるけどな。

まあいいか。

楽しければ。

 

人のこと考えて、人のためを思って、でもそれを押し付けがましく言わないで、静かに、自然に、やってのけてしまう人はかっこいいよね、だれでも。

人のために働きたい。うん。

 

あと何に対してもだけど、ひけらかさずに、しれっと、さも当然かのように、行動で示せる人ってめっちゃかっこいいよね。

言葉は時として余計なのだ。

行動だけでかっこいいんだから、自信もって!ってめっちゃブーメラン。笑

 

自信がないと、口だけ達者になる。言い訳ばっかり、悪い癖。

行動で示せる大人になりたい、ならねば!

 

話逸れたけど、落ち葉掃除も雪かきも、そんな職業も役目もないのです。

でもどこかの誰かがやってくれているのです。

 

落ち葉掃除や雪かきだけでなくても、どこかの誰かの行動、仕事、働きかけによって、私たちは日々生活をしているわけです。

 

そのことに感謝をしながら、大人になって、私もまたそのどこかの誰かになりたいと願うのです。

 

お布団の中から、どこかの誰かへの敬意と感謝をここに記させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

あの頃の気持ち。

 
なんていうか、
なんていうんだろう、 
あの頃の気持ちを思い出せないこの感じ。
 
それくらいの気持ちだったのか。
でも確実に何かそれなりの気持ちがあったのは確かで。
私なりに何かしたいことがあったのも確かで。
 
ただ、不明確。
 
ただどこかにモチベーションを置いてきてしまったような気はする。
もしくはやりたいことが変わったのか。
 
どれも正解な気がする。
 
モチベーションはよくわからない。
なくはない、でもふわふわ。
 
やりたいこと、大枠は多分ずっと同じ。
 
望んだことが出来なくても、今いるところは楽しいし、気づけば方向は完全に足元を見ていて、私が望んでいたことは望んでいなかったことになっている。意識したわけでもない、でも環境に飲み込まれている。
いいのか悪いのかはわからない。
でもきっと人はこういうの、挫折って言うんでしょ。
私がそういう風に今までのいろんなことを受け取っていたら、もっと成長できたんじゃないかとか、たらればの話が思いついてしまうけれど、きっとそこに囚われてどこにも行けなくなってたと思う。と言って逃げ。だけどやっぱり心の擁護をしてしまう。
 
新年に自分と向き合うって書いたわたしはどこのわたしだ。
 
わたしvsわたし
 
どっちもがんばれ。  
 
 
微妙にあとなにかある。

わかんない。

でも今日思ったことは

何かを始める時のことで

やっぱり何か始めるなら

わたしはそれにどきどきするくらいの

恋のような気持ちを抱きたいと。

例えば今はわたしはHTMLを書く課題があったり、フォトショの構造を教えてもらったり、来年の選択次第ではデータベースみたいなパソコン使った技術的なこととかを専門に学ぶこともきっとできる。

イラレやフォトショを買ってデザインしてみたいとも思う。出来たらかっこいい、ていうかやりたい。

だけどどっちもその程度なんだって気づいてしまった。

出来たらかっこいいくらいの気持ち。

こんなんではじめても意味ないなって。

技術は持っていたらかっこいいものじゃなくて、使うためにつけるもので、それを使って何をしたいのか、それくらいないとやる意味がないと思った。まずそもそもその程度の気持ちじゃ放って置かれるのも時間の問題って感じ。目先の課題に囚われて、大まかに時間取れないから。

なんとなくの憧れ、じゃいけない。

動機はきちんとなきゃいけない。

純粋にどきどきしちゃうような、

恋みたいな気持ち。

それがきっとわたしの直感で、動機。

 

将来の将来振り返って、あの頃(将来)と同じ気持ちを持ち続けられることを、仕事にしたい。

そのためにできることってなんだろうな。

 

 

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なんていつか思っていたけど、気づいたらイラレ入れてもらってた。

後から読んでみると本当に、どーーしようもないこと考えてんなって感じ。

 

あーだこーだ考える前にやる。

それだけだよ。

大胆に進んでいこうよ。

 

そういえば誰かに、慎重だけどやる時は大胆だよねって言われた。

正直結構嬉しかった(笑)

 

石橋は石で出来てるんやし壊れないやろ、てかまあ壊れて川に落ちたらそれはまあそれで仕方ないよな、それで死んでもそういう人生だったんだな、っていうタイプなので、まあ悪く言えばただの大雑把なのだけど。

 

大胆さと慎重のバランス極めていきたい。

でもとりあえず今はまだとことん大胆でいたい!

壊れた石橋はも飛び越えて行こうぜ!()