しろくまが好き。

備忘録。自分のために書く。

○○やりたいって、安易に言わない方がいいのかもしれない。

 

 

あー、寝たい

あー、ご飯食べたい

あー、彼氏彼女ほしい

あー、結婚したい

 

 

 

人間いろんな欲望がある。

私は最近謎を作りたい欲求がある。

作れないけど、作れないから、作りたいのだ。

 

ポジティブなことだとTwitterに割となんでも呟いてしまうので、謎を作りたいっていうのを、ふとTwitterにつぶやこう、と思った。

でも、あんまり面白くなさそうだったから、あっさりやめてお風呂に入った。

 

そのままお風呂に入ったら、一生懸命謎のギミックを考えていた。作れないなりに。

出来ないなりにやれることもある。(ただのかっこつけ)

 

考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えても何もいい案は浮かばなかったので、謎製作者たちはどうやって謎を作っているのか気になった。誰か教えて。

という話ではなくて。

 

はたと振り返って、私はお風呂に入る前に「謎作りたい」って言っていたら、お風呂でこんなに頭を悩ませただろうか、と思った。

 

多分、考えていなかった。

 

きっと、ツイートなんてしていたら、私のお風呂での思考は、(作れよ、みたいなリプくるかなー、あでも深夜だしな。いいねくらいしてくれるかな、誰か。ふふ、お風呂あがったら確認しよー!)だった。確実に。

 

だから、きっとお風呂上がって、いいねが一つでもついていたら(いや、ついてなくても)、満足して、おやすみ、だったのだ。謎の内容なんて一切考えちゃいない。やりたい、と発言しただけで、やった気になってしまう。なんて自己満足。

 

やりたいという発言に対する反応があった(なかった)、というだけなのに、それで満たされてしまう。なぜだか。

やりたいが好きとほぼ同意だからだろうか。日本人は好きがアイデンティティになるってどこかで聞いた。きっとやりたいもアイデンティティの一部になる。それを"いいね"されたり、肯定されることで、他人に認められた、と思ってしまうのかもしれない。

 

でも、やりたいには、成功も失敗もない

せいぜいつくのはいいね、くらいだ。

 

成功も失敗もやったことにしかつかない。やっていないことは、判定ももらえない。だから、形にしていかないといけない。人に、見てもらえる形に。

 

やりたい と やった には大きな壁があるのだ。

 

やった と言えることを増やすために、やりたい で満足していてはいけない。

外に発しないことで得た不満足が、何かを成し遂げるまでの自分を後押しする。

アウトプットの段階は、あとにあとに持っていくべきなのだ。

 

もちろんその発言によって、人が集まったり、話が広がったりすることもあるし、一概にだめだとは言えない。

 

 でも、○○をやりたい、その発言で得た満足は、○○をやったへの道を閉ざしてしまうと思う

 

少しの不満足が、エネルギーになる。

「やった」を少しでも増やすための。