しろくまが好き。

備忘録。自分のために書く。

今日ってみんな同じじゃないの?

 

‪ユリゴコロを読んでいる最中。

ふと湧き出てきた、なぜ。

 

 

‪なんで同じ今日のはずなのに、生きている人と死んでしまう人がいるのか謎です。

 

運命という言葉で片付けていいの?

不慮の事故とか、寿命とか、抗いたくなるような言葉ばっかり、全部何かに仕組まれていたかのような感じ‬

 

事件だ、事故だ、病気だ、怪我だ、なんだと、人が亡くなれば、そんな理由がつけられて、可哀想に、まだ小さいのに、まだ若いのに、あの年まで生きれば大往生よ、病気だって、事故だって、事件だって、本当にいい人だったよね、あの人は悪いことばっかりしてたから罰があたったのよ、

いろんなことを言われて、惜しまれたり惜しまれなかったりしながら、骨になって、お墓に入れられて。

 

こんなぶっきらぼうに人の死を書けるほど、人の死を知らない訳では無いけれど、このやるせなさをどこにももっていけない。

 

なんでだろう。

私とあなたは、どこでボタンを掛けちがえたの?

何が違うの?

同じ人間で、同じ日本人で、同じ大学生で。

いろんな同じを持っていたはずなのに。

私には今日があって、あなたには今日がないのはなんでなの?

 

 

 

どうして人間は死んでしまうの?

 

 

 

5歳くらいの女の子だったら、相手も真剣に答えてくれたはずだが、21歳目前の女子に聞かれたら、精神病でも疑われるのだろうか。

 

普通とか、当たり前とか。

普通が1番って言ってる普通さ

普通を支える膨大な異常

普通を普通たらしめる個人世界

普通が普通である当たり前の価値観

当たり前という名の退屈な日常

 

当たり前も普通も当たり前じゃない、普通じゃないところから始まっていて、そこにあるのはマイノリティなことで、きっと人の死って当たり前じゃないんだけど、みんないつか死ぬと考えたら、至極当然で、当たり前で、普通のことになっちゃうんだから、不思議だよね。

 

でもやっぱり人の死を当たり前には出来ないし、それは異常に見える。

確固たる何かなんてどこにもないし、普通と当たり前の価値観は私の世界にしかない。

でもきっと、人の死が当たり前じゃないという価値観は、地球共通な気がする。

少しずつ分け合ったそれぞれの世界にある、共通する普通的価値観こそ、普通なんだろうか。

 

今日という、人々に与えられた24時間にあった出来事を、普通と普通じゃないに分類して、普通じゃない出来事を共有しあったら、きっと私はいろんな人同じ話が出来るはずなのに、それを誰ともしないし、しようともしないし、されることもない、そんなことがひどくもどかしいだけなのかもしれないけれど、考えずにはいられない時間ほど、短くも長くも感じられて、考えようと意識してないのに目の前にある現実は、ずっと頭の片隅から消えない。

記憶なのか、記録なのか、感情なのか、意識なのか、よく分からない私の中の何かが、それを外に出したがってた。

 

そうすることで救われるのが自分であることも全部分かっていながら、そうしてしまうのは私の弱さなんだろうと思ったけれど、当たり前じゃないことを当たり前に装うことは1人でいる時には出来ないことを悟った。

 

でも、当たり前は当たり前じゃないし当たり前じゃないことも当たり前じゃないということと、当たり前じゃないことを当たり前に装うこと、というのはやっぱり違うと考えが固まっただけで、胸のつかえが取れた。きっとみんな言わないだけで、その当たり前じゃなさ、は当然感じていると想像出来るだけで、安心するものなんだな。

 

そしてやっぱり、当たり前と普通は、当たり前でも普通でもなく、退屈な日常でもなく、ありがたい日々だった。