他人は他人。
目の前にいる人が、
自分と同じ人間に見えるけれど、
実は同じ人間ありながら彼らは赤の他人だ。
同じようなパーツを持った、外見としてカテゴライズするなら人間に属するような、そんな彼らも、私とは違う人。
何に喜んで、何に悲しんで、何に怒って、何に泣くのか。
そんなの分かりやしない。
何が嬉しくて、何が嫌で、何が好きで、何が嫌いか。
言葉で伝えられる範囲のことは分かっても、やっぱりすべてを理解することは出来ない。
だから人間と人間はぶつかる。
その原因は、分からないから。
分からないから、怒り、怒られ、傷つけ、傷つけられ、ぶつかる。
でも、何をどう言葉に表したって、100%の理解なんてない。
言葉で覚えることしか、人間には出来ない。
行動や言葉に見えたものから判断するしかない。
同じ人になることは出来ないから。
分からないからぶつかって、
分かろうとするけれど、
それでも分かりきることは出来ない。
悲しいけれど、それが現実だ。
でも、分かることを前提にしているから、悲しいんだ。
分からないことが普通で、当たり前。
分かったような気になっているだけ。
分からないことを隠すために、何かを言葉通り理解して、記録しているだけ。
分からないことを前提に考えると、少し知るだけで、それが嬉しくなる。
分からないことは変わらないけれど、一部は知っている。
そういう少しの距離の縮まり。
他人に対しての知識を増やしていくということ。
こんな儚い関係が、人間同士の付き合いなんだと思う。
分からないことも、知らないことも悪いことじゃない、普通のこと。
他人の全てを知って、理解するなんて、到底不可能。
お互いを理解し合ってる、なんて嘘っぱちだ。
だから理解し合おうともがき、相手に対する知識を増やし、それでも知りたいと願い、最大限の気遣いをもって相手に接する。
その人を知ることが喜びで、その人と一緒にいることが幸せ、みたいな関係。憧れですね。
最後何言ってるかよく分からないけど、人のことは分からないし、何しても理解は出来ない。
理解しようと言葉を交わしたって、同じように理解することは出来ない。
だから言葉を選び、同じ目線で同じものを見えるように、言えるようにする。
同じ時間、空間、出来事を共有して、お互いの共通項を増やしていく。
そうすることで保たれている関係。
人間関係なんて、叩いたら壊れる石橋のように脆い橋なんだろうなぁ。
壊さないような慎重さとか、渡らない決断とか、壊してしまった時の修復方法とか、経験しなければ分からないことがたくさんあって、壊さない慎重さだけ増している私のやり方は、正しいのか、疑問である。
たまには壊してみたくもなる。
でもやっぱり失いたくないという欲求が買ってしまうんだね。
都合のいい人にはならないようにしようっと。