人間関係は、ファイルの共有みたいなもの。
世界と言われると何を想像するだろうか?
世界って何なのか。
私はずっと70億人が入った箱みたいな、地球という空間をイメージしていた。
そこはみんなが上からみると平等に見えて、下から見ると不平等に見える場所。
すっぽり一つの箱に、70億の個体差のない人間を詰め込んだような、全く非人道的なイメージ。
でも、人間は人それぞれだ。
同じ人間だけど、異なる環境で異なるバックグラウンドを持ち、異なる考えで、異なる毎日を送っている。
そうなると、世界はただの容れ物にはしておけない。
世界は、一人一人の内側にあるもの。
地球は一人一人の世界を詰め込んだ、空間。
これがぴったりだ。
一人一人を他として尊重するために。
私にも、私以外の全ての人にそれぞれの世界があって。
私が誰かと話している時、私の世界にその誰かはいるし、その誰か世界に私もいる。
二つの異なる世界は時間と空間、共通する何かを共有しているけれど、同じではない。
例えて言うならば、世界はフォルダーみたいなものだ。
私というフォルダーがあって、他者にもそれぞれフォルダーがある。
すべてのフォルダーは並列に並んでいる。
私のフォルダーにはたくさんの私という人格を構成するファイルがあって、属性、思想や思い出、記憶…さまざまなことが入っている。
他者も同じように、それぞれファイルを持っている。
私と他者が時間や空間を共にし、何か会話を交わす時、そこには共通のファイルが生まれる。
そして話したこと(ファイル)が共有されたりする。
だから気が合う人とは、同じファイルがきっとたくさんお互いのフォルダーに入っていて、気が合わない人とは共通、共有するファイルが少ないのだ。
つまり私たちのフォルダーは、他とは全く違う唯一無二のフォルダーで、圧縮したり変換されることもあるけれど、基本的にファイルの共有によって他者との関係を成り立たせている。というイメージ。
世界その人の持つものの大きな容れ物。
その人そのもの。
私たちはみんな平等じゃないし、同じじゃない。
平等である必要もきっとない。
同じように扱われるべきではない。
同じことが、正しいことではない。
同じに正解が隠れているわけじゃないんだ。
同じには、一般しか入っていない。
もっと言えばその一般だって、より多くの人が共有しうる世界の一部分な訳だ。
普通とか常識だってそう。
他の人とあるコミュニティにおいて、より多くの人が共有しうる部分。
いろいろな世界に入っている部分。
でもそれが入っていない人ももちろんいるから、世界にそれが組み込まれている人による、組み込まれている人のための、価値観。
"普通"や"常識"には何の意味もなくて、
大事なことは一つ一つの世界それぞれに適した方法で向き合うことだ。
そんなことは不可能だから、と決定のために多数決の原理が使われ、流動的な普通や常識が生まれた。
でもそれは多数決が1番正しいこととして扱うことではない。
多数決はあくまで方法で、それによって決められた観念は守られるべきではあるが、押し付けられるべきものではない。
「それが普通だから」
「これが常識だから」
普通や常識を盾にした言い分を今まで何度聞いただろう。
普通や常識によって、他人をコントロールし、コントロールされることでしか、秩序は保てないのだろうか。
より多くの人が共有、共感する世界を持たなければ、人間は生きていけないのだろうか。
普通で満たされていない世界はそんなに怖いだろうか。
相手と違っている部分があったらいけないのだろうか。
人と同じことの何が偉いのだろうか。
一番大切なことは、一人一人のそれぞれの世界にとってのベストがあることだ。
普通に押しつぶされるために、多数決があるわけではない。
私たちがそれぞれのベストを見つける上で、妥協しうる部分を決めるための手段だ。
人それぞれ、持っている世界も、作りたい世界も違う。
それぞれに色があって、形があって、個性のある世界を、どうやって平等に扱えるというのか。
それぞれにあった答えを見つけられることこそが、平等というべきではないか。
同じ扱い、サポートをすることが、必ずしも良い方向に向くとは限らないのだ。
それぞれが、自分自身の世界をベストにすることを、妨げてはいけない。そういう狭い社会でいてはいけない。
社会の普通や常識がほしい人たちのために、自分の世界を売り出すことはない。
違うのなら違うでいい。
自分の世界を作り上げられるのも、守れるのも、自分しかいないから。
少し前によんだ宮下奈都『静かな雨』の感想。