好き嫌いという感情、シンプルにバグじゃない?
私は「そういう人が好きだから(もしくは嫌いだから)」
・愚痴を言わない
・自分を犠牲にしても相手に尽くす
・人に負の感情を曝け出さない など
という人間になりたいと思っているけれど
こういうのって別に、生きやすい生き方でもなんでもなくて、むしろ生きにくい生き方よりの考え方で
それでも、染みついた好き嫌いは消せないし、好き嫌いで自分が変わらないことを正当化している
認知が歪んでることなんてとっくに知ってるけど、きっと、歪んでるのは認知じゃなくて、性格だ
まあ、性格というのは認知の集合体だよって言われたらまた、卵が先かにわとりが先かみたいな水掛論になってしまうのだけれど
この性格であるために、なりたい人になるために、歪んだ認知と知りながら、偏見をコレクションしてる
それが好きだから、あるいは嫌いだから、といって、ずっと変わらないことを選んでいる
もはや歪んだ認知すらかわいい我が子のようなもので、新しい認知に置き換わったしまったら、これまで築き上げてきた「自分」らしきものの輪郭さえ崩れてしまうのではないかと思っている
アイデンティティを認知に求めるのはバカなのか?
ファッションくらいにしておいた方が、ゆらぎはあるけど、かわいげもあったか?
人生に抱く後悔の量なんて、増やそうと思えば無限大だ
同じように増えていくないものねだりと空虚さえ抱きしめられるなら
もっとまともな人になりたいと願えたらよかった
私は好きな人を刺し殺すくらいなら自分が死にたいんだよ
エゴの塊だとしても自己犠牲したい
でもそれは好きな人という存在を理想化しすぎてるだけな気もする
フィクションだけだ、きれいな自己犠牲は、って頭ではわかるのに、心が理解してくれない
大切にしたいと決めた人に向かう刃は全部自分に向けさせるよ、なんだこれ、惨めな主人公の捨て台詞なの?次のTRPGキャラシですか?
話せば楽になるよって言われても、話して楽になりたくない
人に愚痴を言う人になりたくないし、悲壮感漂わせて気を遣わせたくもないし、かけてもらった言葉を飲み込めない自分も嫌だし、そうしてヘラヘラしちゃうのも悪い癖だし、そもそも言いたいことをストレートに言えなくてモヤモヤしたりもする
だったら時間はかかるけど、1人で頭をこねこねして、自分がほしい言葉を自分で見つける方が、不意に嫌なことが起こらなくて済む
何かを話したい人って自分にとって大切な人で、でも大切な人がいつも自分のほしい言葉をくれるかというとそんなことはなくて(私のほしい言葉が限定的すぎるのかもしれない)、なんか違うなって思ってしまう自分がすごく嫌
とにかく話すことにまつわる気がかりごとがたくさんあって、そこに私が嫌いな私ルートへの落とし穴がありすぎる
本当は話せば楽になるのかもしれないけど、一歩間違えたときの自分が嫌いだから、避けている
大切な人にはなんでも話せなくてはいけないという認知と、大切な人のことはなんでも受け入れなくてはいけないという認知がごちゃまぜになって、変な方向に向いてる気がする
そもそも大切な人という存在を神格化しすぎ、私
ていうか他人を神格化しすぎだよな、だいたい
好き嫌いって、リソース振り分けのためにある単純思考回路であるのかなとは思っていて、つまりなにもかもが有限であれば、好き嫌いとか言わなくて済むし、何でもかんでもに触れ、入れ込み、尽くせばいいんだよね
ただそれはできないから、好きなものにだけ尽くしている
いやそもそも尽くすことを好きの証明だとしようとしてることもなにか間違ってる
あーこの話また別の話だなと思うけど、今また別の話思い浮かんだ、話どんどんズレてるから気にせずズレよう
尽くすのは好きだけど、奉仕って言われると突然嫌になる不思議なやつ
応援したいもの、陰からこっそり支援したいのに、クラウドファンディングとか募金って言われると、わーいっていけない
お金を出したくないとかじゃなくて、ありがとうを言われる前提なのが、どうにも受け入れられない
ありがとうを期待して善意を行う自分が嫌いというか、その善性を証明出来なくて気持ち悪いんだよな
自己犠牲はエゴでもできるけど、奉仕はエゴじゃできない
キリスト教教育によって、奉仕も神聖なものだと思わされてる可能性ある
この間推しの公演のクラファンも本当に迷った 私は2回で11000円のチケットが10000円になるから買った、それだけ、って思わないと支援できなかった
感謝のメールとか、一生見れない気がする、丁重なメール来なくてよかった
応援はしたいし、お金は送りたいが、もっと普通に受け取られたい さすがに何もないのもどうなんだろうとは思うけど、ありがとうが確約された支援って、こう、わーーーーーってなっちゃう、なぜ
それなら、必要かわかんないけど、勝手にお金振り込んどいたから!要るなら使って!くらいがいい、なんだろ、勝手にやりたい、そういう自主性とエゴは偽善じゃない気がして、ちょっと安心できる
でもこの話、どこまでいっても偽善じゃないことを証明できない気持ち悪さが拭えない
ほんまにめんどくさい性格
誰にも感謝されないけど道に落ちてるゴミ拾った、徳積んだわーくらいの行いをして生きていきたい、無理だ
話戻そうとしてみるけど、好き嫌いでの判断って、正しいようで、正しくないのかもなって思った
いや正しいも正しくないもないけど
自分の好き嫌いに苦しめられるって、愚かすぎる
まあ人間は愚かな生き物だから 感情も愚かだから でも愚かでかわいいものだから
好き嫌いがあるから楽しく生きられるけど、わたしはそんなに好きばかり探さなくていいし、見つけた好きだけを追わなくてもいいし、追うことや尽くすことだけが好きじゃないと思った方がいいな
どうしてオタクとかやってると、どれだけ尽くしたかみたいな目に見えぬ戦争を幻視してしまうんだろう、私の脳と目が腐ってるんだよな、しってる
みんなが幸せそうなのはわたしも幸せなんだが、突然バチバチした視線向けられると、バチバチした視線返しちゃう、やめろ
乱暴な言葉遣いするの楽しいな
あーあ、どこまでいっても愚か
雑な言葉で愛を語りたいじゃん、みたいな
いや違うんだけど
ほら、雑な言葉でひどいこと言ったら、ただの暴力になっちゃうから
過激な言葉を使うときほど、愛が必要だよね、って、だからなんの話なのこれ
厨二病主人公みたいなRPしたいんかな??そういうキャラ作る??
今思ったけど、認知の歪みとこだわりを混同してる
いやそれらってもしかしたら表裏一体なのかもしれないけれど
生きづらくていいからわたしのこだわりを突き通させろって気持ちなの
歪んでてもいいよ、それがわたしの学びの結果で、生きてきた証だから
そもそも歪んでないってなんだ、正しいってなんだ
客観的であれば生きやすいのか?それを決めたのは誰なんだ?そうして切り落とされた主観ができることってないのか?
主観には感情があって、客観には感情がないイメージをもってるのが悪いのか
それでも人それぞれ見方が違うから楽しいとか、感じ方が違うからおもしろいとかあるじゃん
そのために犠牲になっている精神をかわいそうだとは思うけど、救いたい気持ちにはなれない、なんでだろうな
限りなく突き抜けた自己は、肥大した自己愛を孕んで、歪んだ認知と心中するんだろ
それはそれでハッピーエンドだと思うよ
そうじゃないと報われないじゃん
だから、自己を通してどこまでいっても事故を起こしたいか、ある程度この社会に適応した「生きやすさ」というものを獲得して普通に生きるか
2択じゃないけど、極論はこんな感じ
無碍にされた精神とその果てに起こる事故に意味を見出したいだけかもしれない
でも精神病んでる作家とか多いじゃんって思う
精神を病むことと自分らしくあるってもしかして結構近しいところにあるもの?
まあそんな気もするな
いや冷静な話をすると脳の病気だから違うんだけど
しかしこれあれか、自分らしくあることを、わたしは、ストレスのかかる行いだと思ってるわけだね
自分を突き通すことが、他人の目を気にすることによるストレスに負けてる
頑張って勝とうか?負けを認めて他者の生き方を模倣するか?また極論みたいなこと言ってんな
いっつまーでも白黒思考
モノトーンがすきだから、は言い訳になりませんか?
ならんな、グレーも好いてあげよ、いやグレーはすきなんだよね、チャコールグレー派
何言ってんのかわかんないけどつかれたからおしまい
(酒に)酔ってるのと(車に)酔ってるのとのぼせてるのと胃もたれしてるので、ずっと気持ち悪い
よくそれで3000文字も駄文を書いたもんだ
でもこれは、句点がないから、無意思、無主張、頭の整理のための書き殴り
カロリーゼロ理論みたいな感じ
句点をつけるほどの意味も自信もないし、この文に対する責任も持てないから
句点は重いんですよ 今のわたしにとってね
句点に込められた、語らない意思みたいなものが好きだから