しろくまが好き。

備忘録。自分のために書く。

「いいよ」って、許されてる訳ではない。

 

 

誕生日を迎え、みんなにお祝いしてもらってハッピー!みたいな日の夜にふと思ったことが、わりと暗かった。笑

 

 

何か、相手に迷惑を掛けてしまった時、私たちは謝るし、相手もそこまででなければ「いいよ」って言ってくれる

 

 

でもこれはただの3文字ではなくて、その前に数行の本音を孕んだ3文字で、この3文字に含まれる意味は計り知れないのが現実だ

 

 

まあ今雰囲気崩すのもな、本当には嫌だけどそれじゃあ気が小さいやつになっちゃうしな、なんでもっと早く言ってくれなかったんだろう、けどまあ、とか。

 

 

それでも普段からよくあるようなことであれば、みんなだいたいなんだかんだいいながら許す。

 

それはマイナス以上のプラスがあるからだ。

 

 

でも、そうもいかずに許し難い時もある。

 

 

そういう時も「いいよ」って言うし、言われる。

 

 

本当の「いいよ」のラインは分からない。

 

 

許されない時のいいよって、その人を見限ったから出てくるものだったりするから。

 

 

時々「許さない」と怒られたりもするけれど、それはその人に直して欲しいと真剣に思っているからだ。少なくとも怒った部分を変えてくれることを怒った側は望んでいる。まだそこに改善の余地もあるし、これからの関係も期待できる。

 

 

でもそれに比べて許してもらえたような「いいよ」には裏があって、それが(この人はこういう人なんだ…)という見限りだ。

 

 

見限られる、ということは、怒られることよりもきっと残酷だ。

 

もうあなたへの期待や希望はありません、っていうサインだから。

 

「妻が最近優しくなった…」

から始まるCMがあるけれど、あれにも夫に期待しなくなったから、という妻のセリフがある。

 

 

"優しさ"と"見限り"は違う。

見限りはもはや絶望そのものだ。

希望のない関係になってしまったから。

 

愛のある叱りなら、それを率直に受け入れるべきだ。

 

本当に見限られる前に。