共感力のコントロール
共感力はもともと高い方だと思っていたけど
空気は読めないんだよね
だから特定の人に共感ばっかりしちゃう
なんかそんな感じ
じゃなくて
共感力のコントロールが効いてない
共感ってちょっと歯止め効かせておかないと、ときどき全部持って行かれて、自分まで苦しくなるじゃないですか
だから、結構つらい話とか、泣けるよって話のときは、あんまり心を開かないようにするんですよね
心が動くって表現があるけど、その真逆で、心を固定しちゃうイメージ
誰にも入れ込まないし、どこにも入らない
感動は減るけど、ダメージを受けなくて済むから
でも、最近その心を固定する感じとか、共感をコントロールするブレーキがなくなっていて、フィクションに異常に肩入れしてしまう
ケータイ小説読んでて、苦しすぎて泣いたの、初めてだよ
まあそれが苦しかっただけ説あるけど
苦しい物語をちゃんと苦しむという行為を覚えてから、生身の心臓を差し出しすぎだ
それでも、人の苦しみや痛みに寄り添える人になりたいと思うし、そういう事実や経験を知りたいとは思う
ただドキュメンタリーにはまだ盾を持って望んでしまうのが、矛盾だよね
ドキュメンタリーこそ共感力をもてばいいのに、どうしてがそこは、わかり得るはずがない、という思考に邪魔される
物語の主人公には痛いほど入れ込んでるのにな、不思議
やっぱりどこか、フィクションとノンフィクションの受け取り方に差をつけていて、フィクションはこっちの勝手だけど、ノンフィクションは正解があるみたいに思ってるのかもしれない
なんだか、な
いやこんな話をしたいわけじゃなくて、共感ブレーキが壊れかけてるかもって話をしたかったんだ
でもこの話そんな中身なかったな
共感もほどほどにって感じ
明日元気だったら観たい映画があるから、朝早起きしたい
それを観たらこの気持ちも変わりそうで、とりあえず今思ったことを書いた
最近文章を書きたい欲がとてもあるし、日記再開しようかな
ここはとりあえず書くリハビリ
なんか適当な話を置いておいて、元気だったらリライトしたい
が、私は飽き性なのでリライトとかせんのよな
本当、編集という作業向いてないわ
生のフルーツ食べさせとけよ
みたいな感じ
お料理してくれ
あとさっき思ったどうでもいい話
いつかのわたしに勝手に広げてもらいたいんだけど
湯船→体洗う は長風呂になっちゃうのに
体洗う→湯船 だとすぐ出れるんだよね
なんでだろう 不思議
いやこの話どう広げるんだろな
広がんなかったら忘れてくれ