しろくまが好き。

備忘録。自分のために書く。

逃げる、escape。

 

 

つらい、

しんどい。

 

それが自分から生まれたものであれ、

他の人からもたらされるものであれ、

自分と他人の交わりの中から生まれるものであれ、

つらさ、しんどさは、いつも横たわっている。

 

だから、逃げようと思った。

というより、逃げる道を想像することで、自分を保とうとした。

 

それは、辞めることであったり、もしくは、存在ごと消えてしまおうということでもあった。

 

でも、想像に想像を尽くし、逃げるより、今のほうが、いくぶんマシという理由で、今を選んできた。

正直、ずっと崖の淵を歩いていた。

ふと気を抜けば、吹いてきた風に押し流されて、落っこちてしまいそうな危うさを、ずっと自分の中に抱えていた。

些細な失敗で、それが些細であればあるほど、わたしの心を折るのに十分だった。

コンタクト洗浄液を少しぶちまけたくらいで、大声を出してしまうくらいには、わたしの心は疲弊していたのだと思う。

 

何かを楽しむ余裕もなければ、仕事に精を出す気力もなかった。すべてが中途半端。この1ヶ月を表すには、中途半端という言葉がぴったりだ。

頑張ろうと思えば思うほどに頑張れず、目の前の現実から逃げる方法ばかり考えてしまう。

そうこうしているうに、現実に追いかけられて、迫られて、息が苦しくなる。

どこにも肯定できる自分はいないし、肯定することさえ憚られた。

仕事ができないことを、自分がバカでアホでダメなせいにするしかなかった。

 

全部、逃げだったんだ。

 

そう考えると、なんとか逃げていたなと思う。

どうにか、精神を立たせられるくらいには、逃げていた。

心を現実から遠ざけることで、潰れてしまわないようにしていた。

もしかしたら過剰だったのかもしれないし、もっともっと潰しても大丈夫だったかもしれない。

ただ、今何もなく生きているということは、ひとまず、間違ってはいなかったということでもあるのかもしれない。

 

今日、わたしは新しい逃げ方を学んだ気がする。

これを逃げというのは失礼なのかもしれない。

これまでわたしが使ってきた「逃げ」とは違うから。

 

でも、逃げって、マイナスな意味だけじゃなかったのだ。

「逃げてもいい」は、本当に本当に無理になったら、そういう手段も使っていいという、救いの言葉に聞こえていた。

事実、そういう使われ方もきっと多いと思う。

 

ただ、もっと違う意味もある気がする。

わたしには、「つらいところに留まり続ける必要はないよ」「幸せになっていいよ」という許しや自分をゆめるめてあげる言葉にも聞こえる。

 

本当に本当につらかったら、その場から離れてもいい、何かを辞めてもいい。

それに、自分を苦しさで縛っておかなくてもいい。何かができなくたって、何かが足りなくたって、幸せで満たされていてもいい。

「逃げてもいい」には、もっとたくさんの意味があったんじゃないか。

「逃げる」だって、前向きな意味なのではないか。

 

辛さから解放されるためのすべての行為を、「逃げる」というのなら、それは前向きな意味でしかないと思う。

だって、誰もが辛いままでいいわけがないのだから。

みんながみんな幸せになれないとしても、だからといってみんなが不幸で辛くていいわけではないのだ。

誰しも平等に、辛さから解放されるよう努力をする権利がある。

その努力を「逃げ」だと後ろ向きに見える言葉で縛っていいのだろうか。

 

幸福に向かうことは、「逃げ」じゃない。

いや、「逃げ」でもいい。

ただ、その「逃げ」は間違っても、非難されるべきものでもないし、後ろ向きでもない。

ただただ、誰もが追い求める、普遍的な、前向きな行為だと思う。

 

「たった、それだけ」宮下奈都

を読んだ、4連休最後の夜。

冷房をかけるくらい、暑い夏の日のこと。