「嫌い」を認める
(くたーっとしてる犬。この話には何も関係ない。)
嫌いって、
めんどくさい。
嫌いって状態が嫌いで。
人を嫌いになるのが嫌で。
というかだいたいストレス発散が"言葉にすること"だったりする私が、人の嫌な部分を見てしまった時にどうするかって。
"悪口"になる。
ただその嫌だったことを消化したいだけだとしても、きっと悪口になってる。
悪口を言ってる私は私の中で最も嫌いな部類なので、嫌いを消そうとしてた。
好きになる努力をした。
けど、消えないし、消せないし、言葉にもできないし、で、めんどくさくなった。
どうして好きになるのに理由はいらないのに、嫌いになるのは理由がいるんだ。
もう、嫌いって本当にめんどくさい。
だから、嫌いを認めることにした!
悪口を言わなければ、
嫌いは嫌いでいい。
だって世界中全ての人・ものを好きになるのは無理だし、たぶん好き嫌いの差って1番わかりやすい個性だったりする。
だから、もう少し自分の好き嫌いを大切にしようかなって。
自分の好き/嫌いを見つめ直して思いました。
嫌いを消すのはやっぱり好きを軽んじることな気がして。
好きは好きで、嫌いは嫌いで、区分けはしっかりすることが、ある意味好きに対する敬意なのだろう。
ただ、人の一部分が嫌いでも、その人自体を嫌いになるのはやっぱり違うから、そこのスタンスは変えないで生きていこうと思う。
好きになる努力はしないけど、良いところを見つける努力はする。悪いところばっかり見て、人の評価を下げるのはある種偏見で、私が苦手なあの人も、世界の誰かには愛されてると思うから。
すべての人に好かれる人はいないし、すべての人に嫌われる人もいなくて、みんな良いところがあって、悪いところがあって。
好きっていうのはただその良いところが良く見えて、悪いところが気にならないということで、嫌いっていうのは良いところが隠れていて、悪いところが気になるってことなんだ、と、思う、、、うん、そういうことにしとく。
そして、「嫌い」を認める、ことを私の中で正当化する。
めんどくさいことからの逃避。
こういうところは得意分野。
めんどくさい感情は消化していなきゃ蓄積されていって、それがまためんどくさいの連鎖を生んでいくんだ。ぬぬぬ。
楽しいこと考えて、幸せに生きたい。
今しかできないことを、今やるために。
お気楽な人生でいいんだ。
つまんなくて、つらい人生送るくらいなら、ふわふわ〜って言われても、心持ち豊かでいたい。
もはやこれ自己防衛手段になりつつある。
あー
わたあめになりたい。
雲でもいい。
あ、いや、やっぱりしろくまか犬かな。
地に足は着いている方がよさそうだから。(笑)
ほんと、何言ってんだかって、誰かに言われそうだ。もはや言ってください。全力で解説する(しない)
さーて5限のお話を聞いてみよう。
いざ、カウンセリング概論!